2013年12月25日水曜日

祈り

クリスマス礼拝に行った。

 なぐさめられるよりもなぐさめることを、
 理解されるよりも理解することを、
 愛されるよりも愛することを、わたしたちに求めさせてください。
 (「平和の祈り」より)

普段なら、こんな言葉は綺麗事だと思う。
でも、できるならそうありたい、そう生きようとしている人を、知っていると思った。

「醜さを愛せ」とは、某ドラマの最終回の決め台詞である。
正しいと思う。
誰だって、なぐさめられたいし、理解されたいし、愛されたい。
それを醜さというのか分からないけれど、すくなくとも、健康な欲望だと思う。
それを否定することはしたくない。

以前、イスラム教の友人と話していて、日本は無宗教の人が多いと思うという話をした。
「じゃあ、いったい何を心の支えにしているの」と聞かれた。
そうか、彼にとってイスラム教は、心の支えなんだと思った。

祈りは、理想であり、綺麗事であふれているかもしれない。
だけれど、きっと、心の支えなんだろうと思う。
現実はそうはいかないことが分かっているからこそ、何が正しくて何が間違っているのかも答えがないからこそ、きっと、心の支えなんだろうと思う。

2013年12月16日月曜日

起きなさい



「起きなさい」優しく頬をなでられる冬の日差しが君であったら



障子がやぶれている。
貼り直さないとと思いつつ冬になり、低くなった太陽に起こされている。

2013年12月11日水曜日

ちゃらんぽらん

小さい頃、母はよくピアノを弾いていた。
どんな曲が好き?と母が聞くと、私は「ちゃらんぽらんしたやつ」と答えたそうだ。
はて。「ちゃらんぽらんしたやつ」とは一体。
母は、自分のレパートリーに「ちゃらんぽらん」な曲があったか、必死に考えた。

「これ?」「ちがう」「これは?」「うーん、もっと踊っちゃうような……」

そんなこんなの末、どうやら、ドビュッシーの「子供の領分」であることが判明した。
ゴリウォーグのケークウォーク。
2拍子の、出だしがとくに好きだった。
飛び跳ねて、ダダダダーンと着地する。
曲の中にグッと引き込まれる感覚が、なんともいえず好きだった。

私がピアノを弾くようになって、ひとつわかったことがある。
聴くのが好きな曲と、弾くのが好きな曲は、違う。
前述したとおり、私は、音が自由に飛び跳ねる、踊っちゃうような楽しい曲を聴くのが好きだった。
しかし自分が弾くとなると、静かな、バラードのような曲のほうが得意だった。

好きと得意が同じこともあるけど、違うこともある。
「ちゃらんぽらん」の曲は、そのことを初めて理解した記憶とつながっているのである。

2013年12月6日金曜日

ポテトサラダ

誕生日に、ポテトサラダをもらったことがある。
どんぶりいっぱいに、ラップをかけて、もらった。
私は家に持って帰った。
「本当は一緒に食べたかったんじゃないの」
私からどんぶりを受け取りながら、母が言った。

親子の関係は、他人以上に難しいと思う。
なぜ誕生日にポテトサラダを持って帰らなければいけなかったのか。
今思えば、その理由を推理するなんて名探偵コナンでも不可能に近いのに、当時は分かってほしいと思っていた。親だから、分かるのが普通だと。
でも、そんなはずはないのだ。
分からないのが普通だ。
それを、どうして分からないんだと思うのは、それもまた、親子だからだ。

どうして分かってくれないんだという事があると、私はこの「ポテトサラダ事件」を思い出す。
胸の内に、もったりとポテトサラダがあるようだなあ、と思ったりしている。

2013年12月4日水曜日

五分だけ、と断ってから桜の木見上げるどうぞこころゆくまで


その日は、新学期が始まる前の4月だった。
花見の予定ではなかった。
しかし、あまりに気持ちよい陽気の、さくら降る下で、みとれぬわけにはいかないのは私も同じだった。
五分だけと言わず、どうぞこころゆくまで。


沈黙の春のレイチェル・カーソンの真逆のような風が通った


見上げる沈黙の中を、風が通った。
ざわざわと賑やかだった。


「花見といったら三色団子でしょ」ピンクはさくらの味がしますか


繰り返すが、花見の予定ではなかった。
しかし、三色団子を買いにコンビニを梯子したという。
「ローソンにもなくってね、……」
三色団子って味ちがうのかなあ。ピンクはさくらの味がしますか?


はなびらで描いた矢印すぐさっきまでここにひとがいたんだねえ


誰かが花弁をならべて落書きをしたようだ。
花弁はすぐ飛んでいってしまうのに、まだ形が明確だ。すぐさっきまでひとがいたんだねえ。



短歌は、記憶を閉じこめておくことができる、匂い袋のようなものだと思う。

2013年11月28日木曜日

思い出

思い出を書き過ぎているのかもしれないと思う。
しかし、それ以外とは何だと言われたら、過去の体験はすべて思い出でもあるといえる訳で、今日起きたことも今からしたら過去の体験であり、そうすると思い出以外のことだけを書くことは難しいのかもしれないとも思う。

回りくどい言い方である。

今日、新潮社の雑誌『波』が届いた。
ジョン・バンヴィル『いにしえの光』の書評に、こんな文章がある。

 近代小説のひとつの特色は、思い出を文学の大きな主題にしたことだろう。
 時間があまりに速く過ぎてゆく近代にあっては、過去と現代の連続性が失われてゆく。
 過去と断ち切られた人間は、なんとか自分の統一性を取り戻そうと、思い出にすがる。
 (川本三郎「思い出を生き直す」、『波』2013年12月号より)

『いにしえの光』では、思い出は決して良いものとしては語られない。
そしてここでも、自己の過去との連続性を取り戻す方法として、思い出にすがるのだと言っている。
しかし評者は第一声に、こう宣言しているのである。

 小説とは記憶だ。
 失ってしまったかけがえのないものへの愛着、思い出なくして小説はありえない。

おそらく、人にとっての思い出は良くもあり悪くもある、しかし小説にとって思い出は、なくてはならないものだと。そう言っているのである。
私は、人として思い出にすがりたくはない、しかし記憶を紡いでいきたいと思う。

2013年11月26日火曜日

方言

冬ばってん「浜辺の唄」ば吹くけんね ばあちやんいつもうたひよつたろ(笹井宏之)

笹井さんは佐賀の人だ。
普段の歌に方言は使われていないだけに、無造作なその土地の言葉にドキッとしてしまった。

東京駅だったと思う。
その時、一緒にいた人に電話がかかってきた。
母親らしい。
出ると、最初は標準語だったのが、じわじわと九州の言葉に戻っていった。
私は少し離れて、そうやって話すのを聞いていた。
普段まったく方言の出ないその人がそうやって話しているのを、もう少し聞いていたいと思った。
そのことを、何の準備もなしに思い出して、ドキッとしたのである。

ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聞きにゆく

有名過ぎる石川啄木の歌だ。
啄木は東北行き列車の始発駅である上野に、「そを聞きにゆく」のである。
方言は、威力のある言葉なのだと思う。