2014年3月30日日曜日

『穂村弘ワンダーランド』メモ

『穂村弘ワンダーランド』(沖積舎)を読んで思ったこととして。


社会的サバイバルの中の言葉と、詩歌における言葉について。

社会的サバイバルの中の言葉というのは、伝達のロスがない効率的な表現。
誰が読んでも同じ意味に読むことができるもの。
例えば、5W1Hがしっかりあって、結論は○○で、その理由は1~、2~、3~、みたいな構造。

詩歌における言葉は、それと真逆であることが求められることが多い。
例えば、わざと「誰と」を言わないこと。そうすることで読む人が「誰と」を想像する余地が生まれる。友達なのか恋人なのか、はたまた家族なのか。
その空白に読者が読者自身の「誰と」を思い浮かべることで、読者にとって、より生々しいイメージを持たせることができる。
つまり、書き手がたとえ「友達と」であったとしても、「友達と」と限定しないことで、読者は自由に読者自身の「恋人と」であったり「家族と」であったりを、その状況に当てはめて、より自己の体験に引き寄せた生々しいイメージを持つことができるということ。

社会的サバイバルの中の言葉と、詩歌における言葉が、このような違いを持つといった場合に、言葉の捉え方としてその違いを理解していることは重要だと思う。
それは、もちろん社会的サバイバルの中で生きていくために重要というのもあるが、同時に、詩歌の創作時において、その違いを理解していることが活きてくる、という意味で重要でもあると思う。

2014年3月19日水曜日

心がこもってない

「昔、お兄ちゃんとケンカしたとき」
三ツ矢サイダーのCMで、上戸彩さんが言う。
仲直りに、兄が「ん」とサイダーを差し出してくれたのだと。

「昔、お兄ちゃんとケンカしたとき」
私も兄と、しょっちゅうケンカをしていた。
ケンカの原因は、よく思い出せない。
今思えば些細なことだったとも思うし、その時の自分からしたら重大なことだったとも思う。
とにかく毎回毎回、もうれつに怒っていた。

兄妹のケンカではよくあることに、たいてい最後には兄が謝ることになった。
兄は渋々といった様子で謝るのだが、それで終わりにすればいいものを私は、
「心がこもってない!」
と言って怒った。(また怒ってる)
そんなことを言ったところで心のこもった謝罪の言葉が返ってくるとも(今思えば)思えないが、とにかくそう言って怒った。

「昔、お兄ちゃんとケンカしたとき」で思い出すのは、だから私はこの「心がこもってない」だ。
「心がこもってない」の中の「心をこめる」という動詞が、ケンカの最中に使われるのは何だかそぐわない感じがして、言っているほうも何だか変な気分がした。
その後、心のこもった言葉を聞けたかどうかは覚えていない。
ただ、「心がこもってない」と言って怒っていたことだけ、覚えているのである。

2014年3月11日火曜日

忘れる

「忘れそうになる」
と言ったことが、忘れられないでいる。

3年前、私は新しい生活を始めるところだった。
茨城から、片道5時間かけて引越しをした。
初めての一人暮らしに、毎日がサバイバルだった。
スーパーでどの野菜を買ったらいいのか、どの肉が鮮度が良いのかもわからない。
相場もわからないから、どれが高くて、どれが安いのか。
毎日、夕飯は何を作ればいいのか。(数個のレパートリーはすぐに切れた)
研究室は慣れないし、実験は覚えなきゃいけないことばかりで、生物は待ってくれないし、やるべきことはどんどんやってくる。
洗濯物はどんどん溜まるし、買い物に行かなければ食べるものもない。頭の中はパンク寸前だし、一体全体どうやって生きていけばいいのか!

大混乱の中、周囲の多大なる助けのおかげで、なんとか普通に生活できるようになった数ヶ月後。
私は、茨城にいる友人とスカイプで話をしていた。
茨城から片道5時間のその場所は、福島から遠く、余震もほとんどなかった。
納豆が品薄ということもなく、すべてが日常だった。
そういう日常に加え、そこで生活することだけで精一杯だった私は、友人に
「震災があったことを、忘れそうになる」
と言った。

海に面した研究所だった。
毎日、海を見て過ごした。
私が見る海は、穏やかで、きらきらしていて、たくさんの生きものがいた。
この海が、多くの人々の命を奪ったとは思えなかった。
まるで何事もなかったかのような顔をする海の近くで、本当に「忘れそう」になっていたのだと思う。
私は、「忘れそう」になった自分を、忘れられないでいる。

私は字が綺麗ではない。
しかし、字が綺麗だと言われたことがある。

習字の硬筆の時間だった。
集中して、時間をかけて、納得のいくまでやる性格で、その日も休み時間まで食い込んで書いていた。
そこに、ひょいと私のノートを覗き込んだ人がいた。
そして「字、きれい」と言った。
私はびっくりした。
周りにいた友人が、「惚れたなー」とその人をからかった。
そんなことになって、恥ずかしくてお礼も言えなかった。
けれど、嬉しかった。

今は、手で文字を書くのはメモを書く時ぐらいで、メモを書く時はもれなく急いでいる時で、すなわち汚い。
丁寧に、時間をかけて文字を書く、ということをしたいなあと思う。

ふ。
本を読んでいて突然、「ふ」という文字が、それだけ浮き出るように見えた。
「ふ」の一画目と二画目の間が空いている「ふ」だった。

私はかつて、一画目と二画目の間が空いた「ふ」を書いていた。
小学校一年生の時に、習った通りの「ふ」を。
でも、いつからか、一画目と二画目をつなげるようになった。
それがいつだったかは思い出せないが、そうしようと決意したことは、よく覚えている。
私は、学校で教わったことに背くことがなかったから。
初めて一画目と二画目をするするとつなげた時、すこし、後ろめたさを感じた。
できた「ふ」を眺めると、大人の「ふ」になったような気がした。

今でも「や」はうまく書けないし、「ろ」は数字の3みたいになってしまう。
その中で「ふ」は、少しだけ大人びている。