2014年5月24日土曜日

翻訳

アーサー・ビナードさんの話を聴いた。
彼は、日本語で詩を書く。
英語の体験を、日本語でアウトプットするとは、どういう感覚なのだろう。

例えば、子どもの頃、父親と川で釣りをした思い出を書く場合。
その頃はもちろん日本語など知らなくて、すべてを英語を通して体験していた。
父親の声も英語、自分の声も英語、川の名前も、魚の名前も、水の冷たさも、日差しのまぶしさも、聞いたこと感じたこと、すべてすべて英語。
でも、だからこそ、それを英語で表現しようとすると、英語にしばられてしまうのだという。
つまり言葉にしばられてしまうのだと。

そういう時、日本語で書くことで、言葉からふっと距離をとることができるそうだ。
概念としては、こうだ。
言葉になる前の、もやもやしたものが、まずある。
それを言語へと「翻訳」する場合、英語を用いると正しく「翻訳」できないのだ。例えば父親の発した英語の言葉にとらわれて、その言葉の向こうにあるものを掴み損ねてしまうのだと。
そんな時に日本語を用いて「翻訳」すると、言葉にとらわれずに「翻訳」できる。
外国語だからゆえに、言葉と距離をとることができる。

「言葉だけをみて、知っているつもりになるのが最も危険」であるという。
言葉とは慎重に付き合わなければならない。
感じるときは接近しないといけないし、表現するときは距離をとらないといけない。言葉にしばられないように。

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